なぜ「牧師」ではなく「牧仕」?
「牧仕」と名乗るワケ
クラウドチャーチ牧仕 小林拓馬
クラウドチャーチでは「牧師」ではなく「牧仕」と表記します。
なぜ、あえて「牧仕」という表記を採用しているのか。説明させてください。
日本のプロテスタント教会では、多くの場合「牧師」が各教会に存在し、牧師は「先生」と呼ばれます。
私はこの文化に大きな違和感を抱いています。
イエスは、当時のユダヤ教の指導者たちが偉そうにしている様子を批判し、こう言いました。
「彼らがしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。宴会では上座を、会堂では上席を好み、広場であいさつされること、人々から先生と呼ばれることが好きです。しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです」
(新約聖書 マタイの福音書 23章5〜10節)
私は、この聖書の言葉を読んだ時に「おかしいな」と思いました。
現代の日本の教会でも、牧師が「先生」と呼ばれているからです。
イエスがこんなにハッキリ「先生と呼ばれるな」と言っているのに、
「そういう文化だから」という理由でイエスの言葉をないがしろにしているのです。
なぜ牧師を「先生」と呼ぶのかという疑問を、多くのクリスチャンの人々にぶつけてみました。
しかし、みな「そういう文化だから」「慣れているから」「もともとイエスが言った言葉は日本語の『先生』とは違う」
とかなんとか言って、誰も自分たちの言動を変えようとしません。
誰もイエスの言葉に真剣に向き合っていない。私はそう感じました。
ここでイエスが問題にしているのは、ユダヤ教指導者たちの高慢な心です。
神ではなく、人の目を気にする姿。弱い者に目を留めず、私腹を肥やし、見栄を張る姿。
そんなユダヤ教指導者たちの心を、イエスは批判しているのです。
「先生」と呼ばれて、高慢にならない人がいるでしょうか。いい気にならない人がいるでしょうか。
少なくとも私は「先生」と呼ばれたら100%調子に乗ってしまう自信があります。
ですから、クラウドチャーチでは牧仕を「先生」とは呼びません。
また、「牧師」という言葉も使いません。「師」には「先生」という意味が含まれるからです。
そもそも上記のように、イエスは「"師”と呼ばれてはいけない」とも言っています。
ちなみに、聖書には「牧師」という単語は一度しか登場しません。しかもその単語はギリシャ語で「羊飼い」という意味の単語。
本来なら「羊飼い」または「牧者」と翻訳すべきところを、なぜか「牧師」という言葉を無理やり当てはめてしまったのです。
ですから本来は聖書に「牧師」という言葉は存在しません。
ただ、「牧師」という言葉は既に一般に定着してしまっています。
「キリスト教のことをやっている人」という説明を簡潔に、怪しさを避け、本気度を伝えるためには、「ボクシ」という単語ほど便利なものはありません。「仕えるしもべ」というニュアンスを出すために「僕仕」という造語も考えましたが、それだと本来の「羊飼い」というニュアンスを失ってしまいます。また、「ボクシ」だけが仕えるのではなく、イエスに信頼する者はみな神のしもべです。
クラウドチャーチは牧仕を特別視せず、みなが聖書を自分で読み、他の人に教えられるようになると考えています。
また、「人間が教えることは、間違いが含まれている可能性がある」と考えます。
ですから、私が牧仕だからといって、私が言うこと、教えることが必ず正しいとは限りません。
むしろ、必ず間違いが含まれているとさえ思っています。
そのため、クラウドチャーチでは、一人ひとりが自分で聖書を読み、他の人の主張が「おかしいな」と思ったら、相手が牧仕であっても、誰であっても積極的に話し合うことを大切にしたいと考えています。
相手の意見に異を唱えることは、相手の人格を否定することではないからです。
私が言っていること、教えていることが「おかしいな」とか思ったら、遠慮せずにぜひぜひ教えて下さい。
特にめちゃめちゃ聖書を勉強しておられるそこのアナタ! アドバイスお待ちしています。ぜひ教えて下さい。
これらのことを総合的に判断し、
クラウドチャーチでは「師」という文字を含む「牧師」という言葉を採用せず、
「仕える」という文字を当てはめて「牧仕」という表現を用いています。
もちろん、私自信は「牧仕」と呼ばれるより、自分の名前やニックネームで呼んでいただいた方が好きです。
ぜひ「たくま」「くまさん」と呼んでいただきたいと思っています。
「人の子(イエス)が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい」
(新約聖書 マタイの福音書 20章28節)
「牧師先生」問題については、さらに詳しくブログで書いているので、下のリンクからご覧ください。
他にも、「日曜礼拝」は「礼拝」ではなく、ただの「礼拝会・礼拝集会」であり、
人生そのものがすべて「礼拝」だとか、私が個人的に思っていることが、多々あります。
そちらは、以下のブログ「週刊イエス」で書いていますので、興味のある方はぜひとも御覧ください。